2/5/2023
『悲しみを経ない慰めはない』大倉信師
There Is No Comfort without Sorrow
by Pastor Makoto Okura
「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らは慰められるであろう」(マタイ5章4節)
アダムがあの実を食べた時、彼はその責任を妻エバと、そのエバを彼に与えた神になすりつけました。そして夫から指さされたエバは蛇にその責任を向けたのです。私達は彼らの血を引いている者です。
私達は苦悩や理不尽な問題に向き合う時、アダムがエバにその責任をなすりつけたようにあの人、この人と自分以外の責任者を探し求めます。エバがサタンである蛇にその責任をなすりつけたことと同じことを、私達は今もしています。
私達は何でもかんでも、自分が直面する問題をサタンのアタックだと言うことがあります。確かにそれは正しい一面もありますでしょう。しかし、あの時、エバがあの実を食べたのは全てサタンのせいなのでしょうか。エバはサタンのアタックを受けてしまった気の毒な犠牲者なのでしょうか。サタンは確かに彼を誘惑しました。しかし、その誘惑に従ったのは他でもない、エバなのです。
自分の心の問題、罪の問題を棚に上げて、全て人のせい、サタンのせい、神のせいとすることによって、私達は束の間の慰めを得るかもしれません。しかし、主イエスがここで言っている慰めは、このようなComfort Zoneに身を置くことではないのです。
ここに安住することにより、自分が抱えている心の問題に向き合うことがないのなら、私達の問題が解決されることはないでしょう。神は私達の人生を私達以外の人に託していないのです。神は私達に私達の人生を託しているのです。
あの人、この人ではなく、自らの罪を悲しむ者はさいわいだ。その人はその悲しみを完全に包む私の慰めを受けるだろう。
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