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『神の栄光のために』大倉 信 師


2018年7月1日

今日、多くの若者が世界を放浪しています。かつては私もその一人でした。今から28年前、私はインドのプリ―という小さな漁村にいました。ツアー客が立ち寄るような場所ではない、それこそ一泊1ドルほどの宿にステイしていました。そこに数日いた時、なんと同じ宿に日本人のおじさんも宿泊していることを知ったのです。見たからに日本人なので話しかけますと、誰でも知っているような大きな企業を10日前に辞めて、一人で旅に出ているという働きざかりの50前後の方でした。

深い話しはしませんでしたが、仕事を辞めて、こんな誰も来ないような所に仕事をやめて来ているその方と話しながら、色々と考えるところがあるんだろうなーとその時、思ったことを今でも覚えています。

そして、今、おじさんと近い年となり思うのです。きっとあの方は学校を出て、就職して、ふと、これからの人生について深く考えてしまったのではないかと。すなわち「この俺の人生は何のためにあるのだ」というような心からわきあがってくる問いかけに真正面から向き合ってしまったのではないかと思うのです。このようなことに考えがおよんでも、そのことを深く考えずに、素通りしてしまえば、その場を立ち去ることができたと思うのですが、彼はその内なる問いをごまかすことができずに、旅に出たのではないかと今、想像しています。

回りの者達は50にもなって、そんなことをするのは愚かだと忠告してくれたかもしれませんが、このおじさんは誰もがその人生で一度や二度は考え、しかしながら見て見ぬふりをしていることを、実際に探求すべく、リスクを承知で、旅に出たのです。

このような思いは若い頃のみならず、齢を重ねていくにあたり、いいえ、その人生の晩年になっても私達の心のどこかに引っかかっていることではないでしょうか。

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