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『神に喜ばれ、自分も喜ぶ』大倉 信 師


2018年3月4日

クリスチャンになるということは「歯をくいしばり、きよく正しく人生を生きること」、「聖書に書かれている様々な掟を一生懸命に努力して守っていくこと」というようなイメージをもっている方達がいるかもしれません。もし、それがクリスチャン・ライフであるなら、私はおそらくクリスチャンにはならなかったでしょうし、ましてや牧師になどなってはいないでしょう。私にはクリスチャンも牧師も務まりません。

いったい、どうしてこのようなイメージが伝えられるようになったのでしょうか。キリスト教は禁欲的なものであり、クリスチャンになった日から一切、楽しみとは決別しないといけないというようなメッセージが過去に刷り込まれてしまったのかもしれません。これはとても残念なことです。なぜなら、クリスチャンになるということは退屈なことではなく、それまで見える、聞こえるというようなことだけで楽しい、悲しいと言っていた平面的な人生に高さ、深さ、広さが加わり、違った視点で(言いますのなら神の視点で)自分の人生を見つめ、そこに生きることができるからです。それは人生というものを二倍、経験しているようなもので、この楽しみと喜びは決して小さいものではありません。

●メッセージ音声

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