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『キリストと共に死に、キリストと共に生きる』大倉 信 師


2017年10月22日

「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終りがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ」(伝道の書6章2節)

イスラエルの三代目の王ソロモンは祝宴の家に行くよりも、喪中の家に行くことを望みました。なぜなら、そのことによって自分には終わりがあるということを知るからです。そして、このことに対して備えよと聖書は私たちに語りかけます。その備えは私達がどこに葬られるかということではなく、あなたはその時、どこに行くのかということであります。聖書の約束は私達、キリストにあって死んだ者は、彼と共に葬られたのであり、その葬られた私たちはキリストと共に新しい命に永遠に生きることができるというのです。

「あなたがたは代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分の体をもって、神の栄光をあらわしなさい」(Ⅰコリント6章20節)

私達はキリストにあって罪に死んだ者なのだとパウロは言います。そして、今はこの世界を神と共に生きている者であり、故に私達はキリストにあって代価を払って買い取られた自身をもって神の栄光をあらわすべく今を生きる者であると聖書はいいます。

●メッセージ音声

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